昭和51年01月27日 朝の御理解



 御理解 第5節
 「これまで神がものを言うて聞かせることはあるまい。どこへ参っても 、片便で願い捨てであろうが。それでも、一心を立てればわが心に神が ござるから、おかげになるのじゃ。生きた神を信心せよ。天も地も昔から死んだことなし。此方が祈るところは、天地金乃神と一心なり。」

 神様が教祖金光大神様に、いちいちお伝えをなさる。そのお伝えを受けられて、参って来る信者氏子に、一人ひとりお話をして下さる。お尋ねをすると、返事もして下さる。それが、まあ金光教の信心です。ですから教祖様はどう言う事を芯にして、参って来る氏子に教えを説かれたかと言うと、どこまでも天地の道理に基づいたお話をお伝えなったのです。ね、又は天地の大恩をお説きになったのです。
 どの様な例えば願いででありましても、そこの道理を踏まえて、天地の大恩を踏まえてからのお話であったと思います。また教典に現れておる教えが、すべてそうだと言っても良いのです。天地書附に現れておりますように、生神金光大神天地金乃神一心に願え、おかげは和賀心にあると。ね、これなんかは、もう人間がおかげを頂いて行く事の為の、まあエッセンスのようなものです。人間が本当に幸せになって行く。天地の道理を段々、煎じ詰めて参りましたら、ね、
 人間氏子が和賀心を目当てに、目指しとして信心の修行をさせて貰う。ね、勿論和という心は和らいだ心。しかも崩れない心。賀の心というのはいわゆる謹賀新年の賀であってね。賀正の賀であります。いわゆる喜びです。いわば目出度いという心です、ね。あけましてお目出度う御座いますと言う様な心なんです。ね、いつも心がね、それこそ人と会釈をする時に、始めにお目出度う御座いますと言えれる様な心なんです。ね。
 私の知っておるいくらかの、いくつかの教会で、もうとにかくお広前にお引き寄せ頂いたら先ず第一に御結界で、親先生お目出度う御座います。親先生もまたお目出度うと言われる。信者さん同士がこうやって、そすとお早う御座いますじゃない。お目出度う御座います。もうそれも元気な心で、しかも日々365日それなんです。もう感心します。私共は中々、そういう風に心が目出度くないから言えないのですけれども、本当はそれが本当なんです。金光教の信心はいつもじめじめした、ね。
 陰うつなものではいけません。心がいつも陽気でそれこそ、いわゆる祝い目出度の若松様よと言った様な心なんです。ね、お酒を飲んで心がこう陽気になって参ります。そういう心なんです。言うなら有り難き勿体無き、恐れ多きに酔うておるような心です、和賀心というのは。和賀の賀というのはね。そういう心に私共がならせて頂く、精進させて頂くと言う事が、まっだからお道の信心、信者と言うても良いのです。ね。
 此方が祈る所天地金乃神と一心なり。私は昨日三時からの研修の時に、皆さんのそれぞれの発表を聞かせて頂いて、勿論昨日の朝の御理解を中心にしてでありますが。まあ皆さんの一つの信心の、矢張り教会に飛び込んで、修行でもさせてもろうて、お道の教師にでもならせて頂こうという人達ばっかりの集まりですから、矢張りある意味じゃ素晴らしいなあ、潔い事だなと私は思うたんです。
 昨日あのタバコの話が出ましたよね。もう飲んで百害あって一利なしと。しかもこれを、もし飲まないと言う事になったら、日本中でどれほどしの余分な金が出来るかわからない。第一その火災なんかというものの、殆どのまあ原因がタバコが一番、タバコの害が一番多いと言われるくらいですから。ほれはもうそのタバコでその火事になる、その存在を引いただけでも、大変なお国の力になる事だろうと。ましてや、自分自分の上にもです。ずいぶんとお金が溜まる、それだけ余分に溜まる事だろう。
 同時にガンになる事もなからなければ、ね、タバコ飲み過ぎてどうという、いわゆるその害が無くなるというのですから。ね、まあ私は昨日を境にまだタバコは沢山頂いて持っておりますけれども、これが仕舞えたなら、(あれが全部?)仕舞えたなら止めると思いよったけど、それが切りがない。だからもう昨日の事を境に皆さんに聞いて頂いて通りに、おそらくは一生私はタバコは口にするような事はあるまい、と言った様なお話をさせて頂いたら、家の修行生の方が皆それを感じておる事です。
 そして例えば末永先生なんかが発表しておるのは、もうこん位の物を止める位な事はいつでも出来ると思うて飲んどったとこう言うんです。潔さが違うです親先生が例えばならブラジルにでも、さあ行けと言ったらもういつからでも行く気持ちでおったと、こう言うのです。けれどもそういう潔い例えばなら心を持っておってもね、最近の御理解を頂くとそれを祈り、願わなければならないと言う事の欠けておった事に気がついた。
 もう本当に今日を境に、ね、成程普通の人ならばとてもタバコを止めるちゅう事はなかなか至難だ難しいと言うけど、その位な事はもう何時でも止められるというものを、実は持ってしだごだで、やっぱり勧められれば飲み、又は買って飲むと言う様な事にまでなっておったのだけれども、と言う訳なんです。私は北京時代にすぐ私共の近所におられました、北京の大学の教授をなさっておられました所の、まあ奥さんも先生も大変出来た方でしたが、一人息子さんがありました。
 丁度小学校の6年生位だったでしょうか。ある時私の方に見えてから、とにかく大坪さん、もう最近の子供達の考え方の違うのに、もう驚いたり恐れ入ったりしましたという話をしておられました。というのは前大きなあの木がございましたです。所が木のもう上に上ってからね、その遊ぶからもう危なうしてこたえんから、もう危ないから下りなさいと、その私が申しましたら子供が何とこう言う事を申しますと言うのです。僕達の命はまあ後2、3年だよとこう言うのである。ね。
 いわゆる少年航空隊。もう、それこそ一億千死と言うですかね。もういくつになったら少年航空隊に取られて、そしていつでもお国のために命を捧げるんだよと、ね。危ないもうそう言う事はないて。もう僕達どちらにしたって2、3年だよってその6年生の子供が申しますと言うのですよ。まあ教育というものは、本当に大した事ですよという訳ですよね。と言う様に、矢張りその事の教育を、いわば修行生の方達は受けておる訳です。いつでも道のために準じられるだけの覚悟がなからなければ。
 お道の教師なんか目指されません。人間の言うなら我情我欲を捨てきって、そしてね世の中に愈々難儀な氏子が取り次ぎ助けられて行くと言う事。言うならば世界に和賀心を、時代を創らせてでも頂こうという、そういう高度なと申しますかね。精神の元にお道の教師になるのですから。成程タバコどん止むるくらいな事はいっちょん問題じゃないくらいに、一つの潔さを持ってる訳です。ね。またそれがなからなければ、お道の教師を目指すという事も出けません。ね。
 例えばなら人間的にです、様々な欠陥というか巡りという持っておってもです。なら僕が愈々時には、いつでもそれを改める事が出けると言う位な、一つの自信をまあ持っておるからこそ、お道の教師でも志して貰うのであって、でなかったら自分自身が助からん。ね、けれども何時でもそれをでけると言う様な所に、まあしだごだならめぐりを引っ下げたまま、言うならばタバコでも、なら何時でも止められるから飲むんだと言った様な事ではね第一、ね、気の用心にならない。ね、
 同時になら体も侵されるかも分からない。そこを気がついた時に、潔くもう今日を境に口には致しませんという訳であります。西岡先生なんか昨日の御理解、(     )頂いてませんでした。けれども収録する時にそこん所を頂いた時には、本当にそれをもうもう一番にそれを感じたって、と言っておりましたですね。ですからなら皆さんの沢山私の昨日の御理解を頂いて下さった方達でです、ね、ほんなこつとは思うたばってん、もう即刻、只今からと言った様な潔い。
 私は言うならそのタバコ一つの事でも止めようと思うた方は、まあ少なかったんじゃないかと思うです。ね、思うた方例えばならそこに填まっておる者と填まってない者の違いを、私は昨日皆さんの話を聞きながら感じました。今朝方から私はお夢を頂いて、一時間おきに必ず、あの、休んでも目が覚めるんです。それがたんびんにその頂く事が、その子供達と言うても、その私の見知らん子供達ですけども。この子供達があの何時になったならば、もう丁度私が3時半に出て来る。
 もう3時半になったら、皆の命がを取らなければならないというお夢なんです。私は一時間おきに目が覚めるたんびんに、どんなに考えてもこの人達の命を3時半、もう後一時間しかない、あともう何十分しかないと思うたら、どげん思うても可哀想でたまらない。ほれでその夢と現実とを、でその今日は目が覚めました。そしてその事をどう言う様なお知らせであろうかと思わせて頂きましたら、あの今でもありますかしら、あのタバコにあの、朝日というのがありましたよね。
 タバコにあのタバコを一箱頂いて、はあぁこれは言うならば昨日からの続きだなと思いました。ね。あれには確かに桜の花の模様が、そのあの図案化されて、あの確かにあったんですね。敷島のそれこそ大和心を人とわば、朝日に匂う山桜ばなというその、朝日に匂わんばかりの桜の花が散らしてあるという、タバコでしたよね。それでははぁそういう事だったかと。どうでも信心させて頂くならばです、この潔さがなからなければいけないという事でございます。改まりにしましても一心発起して。
 それを貫かせて頂くに致しましても、ね、しだごだの信心では、矢張りしだごだの信心で終わってしまうのです。だから本気でそこにです、ね、私共がです段々分かれば分かるほど、ね、教祖様のなら御教えを頂きますと、ね、愈々自分の無力さ無力と言う事が分かるけれども、それを事々に体験させて頂くうちに、成程自分で出ける事は何もないんだなあ、何もないんだなと分かって来るんです。ね、そこで、今度は愈々すがらなければおられないという心は、愈々募って来るのです。それがお道の信心です。
 まだ自分でこれも出ける、あれも出けるという間は、まだ本当の信心は分かってない証拠です。ね、そういう意味合いで私は、修行生の方達の場合は、まだ若い身空でそこんところに気が付いた。ね、自分の力の限界というものが分かった。そこから私は道の教師にでもならせてもらおうという、いわば潔い心も生まれて来たんだと思います。ね、またその潔い心にならなければです、第一改まる事が出けません。
 本気の信心修行が出けません。だからこれはなら道の教師を志す者だけではない、お道の信心信奉者の全てがね、私は本当は言うなら、ね、金光大神がです、物言うて聞かせてくださる。神様が物を言うて聞かせて下さる。今までは片便の願い捨てであったけれども、ね、神が物を言うて下さる。その物を言うて下さる事は、ならどう言う事を言うて下さったかと言うとギリギリ決着の所、今日皆さんに聞いて頂いて居る様な事をお話になっておられるのです。
 自分の心の中に本当に今日、私が申しますような、和らいだ心と言うてももう崩れないほどしの和らいだ心。賀の心と言うてもただ、ね、喜ぶというだけではなくて、目出度い心。お目出度う御座いますと言えれるような、そういう心にならせて頂く為には、心の中に、ね、改まなければならないものが、いっぱいあったんでは、そういう心には絶対なれないのです。改めた上にも改め、磨いた上にも磨いて行かなければ、和の心も賀の心も生まれて来ないのです。ね、
 言うなら我情我欲を取る事の手立てを神様が話にして伝えて下さるのです。どういう難儀な問題をお取次ぎ願わせて頂いても、その難儀な問題からおかげを頂かせて頂く事の為にはです、ね、その氏子氏子の信心の程度、程度に応じて矢張り和賀心になる事を説かれたと私は信じております。それはなら教典に残っておる、この御教えの総てが言うならば天地書附の御精神というものをです。
 ご自身がお受けになられてそれを人にも伝えてお出でられる。私は昨日研修をさせて頂きながら、新たな大発見をした。それは頂いてもおる分かってもおるんだけれども、そういう事まで表現し得なかった事を、改めて皆さんの話を聞きながら、いやあここん所が分かっとらなかったねと言うて話した事でした。というのはその合楽の信心を他所の方達が来てからお話を聞くと、その何と言うですかね。
 ピタッと来んのです。分からんて言うんです。こんなに分かりやすく言うとっても分からんて言うんです。なぜかと言うと、金光教の信心はですね、いわゆる金光大神の生きられ方、御在られ方を勉強するのが金光教だという風に今、まあ先ずはほとんどなってるです。言うならばこの教典というものが、少し軽く見られて来たという感じがするんです。しかもその教典という物がです。
 いわゆるなら深いのではなくて、ただ浅く頂き止めておるだけであるから矢張り結局は、金光大神覚と言った様な事が今中心になっておりますね。所謂金光大神の生きられ方、御在られ方というものを身につけて行くのが金光教だとい風に、まっ言っておる訳です。すと、合楽の場合はどう言う事かと言うとね、金光大神の御在られ方ではなくて、天地の親神様のお心を心とすると言う事に焦点を置いておると言う事です。はああんた成程こういう風に違うから、ピッタリ来んのだなあと言う事を思うたんですね。
 ここで皆さんがいつも頂かれますように、ね、信心させて頂く者の、一番肝要な事は天地日月の心になる事肝要だと、私が皆さんに聞いて頂くでしょうが。ね、天地日月の心になる事肝要という事は、ね、天地の心言うなら神様の心を心として行くと言う事を、あらゆる角度から説くのです。だから天地日月の心と言う様な心を目指させて行く内に、いつの間にか自分の心が、和賀心も段々生まれて来るようにもなり、天地の道理にもピッタリ合うから道理に合ったおかげが、合楽では頂けて来ると言う事なのです。
 そして私は改めてまた思うんですけれども、そういうとても後にも先にもこういうお方は先ず、ね、天地開闢以来こういう方は先ず、後にも先にも出られまいと思うのが、私共は天地教祖金光大神様です。ね、天地の親神様がもうほとほとと感心された。お前のような氏子はまだ見た事がないと仰った。ね、もう愈々天地乃親神様が惚れ込んで終いなさるほどしの方ですから、そういう方の生きられ方とか、御在られ方ていうものを、私共凡夫で頂けるはずがないです。ね。
 けれども天地金乃神様のお心を心として、というのもなら金光大神のこの御教え、教典によって、ね、金光大神の言うなら御信心によって現れた所の、天地の親神様のお心の全部がこの教典なんです。それを深めて行けば深めて行くほど、金光大神の信心の深さを、だから感じず訳にはいけません。神の心を心と天地日月の心になる事肝要と言う所に、例えば焦点を置いて、愈々天の心とは限りなく美しゅうなる事だ、地の心とは例えばどのような事であっても黙って受けて、受けて受け抜く心だ。
 大地のような土のような心だ。日月の心愈々、ね、実意と言うならば、ね、日月ほど正確無比なものはなかろう。そういう正確無比を目指して信心させて頂く。それがお道の信心の一番肝要な所だと、教祖は説いておられる。どうぞ私の生き方私の生き方を皆さん勉強せろと仰ってないと言う事なんです。はあ今の合楽の信心と、いわば今一般で言われておる金光教の信心との、そういう相違点と言うかそういう風に感じました。ね、金光大神の口を開けば御生きられ方とか。
 御在られ方と言うて自分達の信心の定規に嵌めようとする訳です。それでそれはもう天地ほど開きが、第一形や真似は出けてもです。いわゆる実意丁寧の化け物が多くなるのはそれなんです。ね、ほれはもう本当にもうちょっと、頭それこそ畳みに頭を引っ付けるごとしてから、おかげを頂きまして有り難うございますと言うとっても、それが内容がないからおかげは頂きよらんじゃないか。
 いわゆるそういうのを実意丁寧の化け物だと、私は言うんです、ね。ね、それは形はそれで真似は出来ましょうけれどもね、金光大神の心を真似る事は出来んのです。ね。これは、合楽の生き方の方がいよいよ本当だなと言う事を、昨日私は改めて発見したような気がするんです。天地金乃神様のお心を心としての生き方を、金光大神の教えによって私共は、ね、一段一段その信心を進めて行こうと言う事であります。
 御理解90節にこうありますね。上から下へ水を流すのは見やすいが、下から上へ流すのは難しい。道を開くと言うても、匹夫の凡人から開くのじゃから、物が難しゅうて暇がいる。神のおかげで開かせてもらうのぞ。例え一時は難しい事があっても、辛抱して行く内には徳が受けられるとある。もう金光様合楽の信心はここに極まって来るんですよ、だんだん。ね。教祖様とは天地ほどの開きがある違いがある。匹夫の凡人である、凡夫であるという事なんです。
 だから時間がかかり、暇がかかるけれどもですよ、様々な問題を通してです、どうしてこんなにも、自分の心の言うならば浅ましさなら浅ましさがいつまでも取れんのだろうか。どうしてこんなに我情が、我欲が出て来るんであろうかという事なんだけれども、そこを辛抱して行く内に、一時は難しい事があってもです、辛抱して行く内には徳が受けられるというところが、私は合楽の信心だと思うです。ね。
 天地の親神様の心を心としてと。ね、いわゆる天地日月の心になる事肝要だと。限りなく美しゅうなろう限りなく辛抱強うなろうと。本気で正確無比と言われるような日月の心。愈々横着のないわがままのない、正確な生き方を身につけて行こうという精進をして行く。成程して行ってもして行っても、中々本当な事のおかげにはなって行かんけれども、その辛抱こそ、身に徳を受ける修行と仰っておるです。ね。
 ここん所が素晴らしいです。一時は難しい事があっても、辛抱して行く内には徳が受けられる。徳が受けられたら、もうこっちのもんだと言う事、ね。徳が受けられたら、出来ないと思うておった事が出けるようになる。ね、不思議です。ね、そこから限りない言うならばおかげの進展と言うか、ね、道の進展と申しますか。おかげが受けられてくるように段々なって来るのです。
 此方が祈る所は天地金乃神と一心なりと仰る。ね、だから天地の心を心として行くのですから、なら私共でもです、大坪総一郎が祈る所、天地金乃神と一心なりと言う様なおかげも頂けれると言う事が分かります、ね。そこで愈々思うのですけれども、ね、信心をさせて頂くには、どうでも潔い心が出来て来なければならんと言う事です。ね、それこそ咲いた花なら一度は散るのだと。この世に生を受けて来たんだ、というて何十年生き続けられるかと。一度は必ずそれこそあの世とやらに行かなきゃならんのだと。ね、
 その間にです。ね、それこそ桜の花のようなおかげを頂いて、そういう生き方を身につけさせてもろうて、そして潔う散る時には、それこそパッと散らせて頂けれるような心でです、信心を愈々させてもらう。ね、言うなら天地日月になる事、そういう信心を愈々身につけさせて頂いて、ね。人であって神と同じような、天地と一心になれれるような、ね、教祖様のお言葉を借りるなら生神とは、ね。
 ここに神が生まれると言う事であって、皆もそのようなおかげが受けられると仰せられる、皆もそのようなおかげが受けられると仰せられるそういうおかげを、矢張り目指さなければ、目先目先の小さいおかげから、その目先目先の小さいおかげをお取次ぎを願わせて頂いても、矢張り帰りに頂いて帰るのは、天地の大恩であり天地の道理である。だから、そういう物を一つひとつ身につけて行きながらです、それが例え一時は難しい事があってもです、その辛抱をし抜かせてもらう内に徳が受けられる。ね。
 そこの所の信心を愈々本当なものにさせて頂かなければならん。ね、愈々大祓い信行に力を入れて本気でね、そういう信心が見やすう出けて来るような、一つお繰り合わせを頂きたいもんです。ね、今までは何処へ参っても、片便の願い捨てであった神様がハッキリと金光大神を通して、神様が物を言うて下さるおかげの頂けれる場が、金光教によって開かれた。ね、そこでその金光大神が言うて下さる事をです、私共が聞かずしては折角物言うて下さる神様のお心に反する事になる。ね。
 神様の心に添わせて頂く、愈々信心を身につけて行きたい。ね。一つ、ね、自分達の心の中から、これは改まりが.........( テープ切れ )